
ある秋のおそい夜のこと,病院の裏庭を抜けて住宅地の道路を少し歩いたころ,うす暗い道路の向こうから,何かがヒタヒタとこちらに向かってやってくるのに気づきました.最初は犬かなと思って気にとめないようにしましたが,まっすぐこちらにやってきます.私は気になって足を止めました.すると向こうもピタッと足を止めました.私は腰をかがめて目を凝らして相手を見ました.すると向こうもじっとこちらを見ているようです.犬を横に太らせたような体型をしています.数メートルを挟んでしばらく声もなく見合っていました.吠えもしないし,どうやら犬ではないらしいと気づきました.狸かなと思いながら歩き始めると同時に相手も歩き始めました.すれ違いざまはお互いに努めて無関心を装い,何事もなかったようにすれ違いました.私はまた数歩歩いて後ろを振り向きました.そうしたら相手もまた止まって振り返ってこちらを見ています.しばらく見合ったまま,ああやっぱり狸なんだとひとり納得しました.病院より海岸までの防砂林には狸が住んでいると言われていますので,その一匹が散歩でもしていたのだと思います.
K君は元気に退院して行きました.「ディズニーランドに行くんです」とすごくうれしそうでした.そして,手紙をくれました.うれしさがはちきれそうに行一杯いっぱいのしっかりした字で書かれていました.「ぼくも今年はがんばりますので,先生も風邪をひかないようにがんばってください」と結んでありました.
K君は1歳6カ月からてんかんの発作が始まりました.発作はほとんど夜間睡眠中に起きました.毎日のように何回も起こるようになって,私たちの病院に入院したのです.9歳でした.すでにいろいろのクスリが試されていましたが,発作は止まりませんでした.おばあさんが付き添っていましたが,夜中の発作が頻回で,発作の時間を逐一ノートに書いていてくれました.ほとんど眠れないために,K君が学校に行っている間にいつも居眠りをしていました.K君はMRIという検査で左の前頭葉に異常があることがわかりました.脳波でも左前頭部に異常が見つかりました.脳腫瘍という診断書を書きました.田舎では,てんかんという病名は脳腫瘍よりもっと忌まわしい病名だという両親の願いを聞き入れたものです.
私はK君の左の前頭葉の異常なところを切り取ることを決心しました.K君は手術の前に私に,「ぼくの頭の中の悪魔を退治してください」といいました.私は「かならず退治してあげるよ」と約束しました.しかし,言葉の中枢に近いことが心配で,いろいろの検査をしました.特殊な麻酔をして脳の血管撮影とアミタールテストを行いました.日本人の大半は脳の左側に言葉の中枢があると言われていますが,K君も左に言語中枢があることがわかりました.電極を留置する手術を行い,電気で刺激して言葉の中枢のある場所を調べる脳機能地図という検査では,切る予定の脳の部分には言葉の中枢が含まれていないことがわかり安心しました.MRIの異常なところを完全に切除することを目標としました.周到な準備をして手術したおかげで後遺症を出さずに異常な部位を全部切り取ることが出来ました.幸いにして,脳の異常な部分が言葉の中枢と少し離れていたのです.術後は一度も発作が出ていません.
退院の時に,「悪魔はいなくなったの?」と尋ねると,「うん,悪魔はいなくなった」と答えてくれました.約束が果たせてほっとしました.家族もこれからは安眠ができることでしょう.いつまでも悪魔が復活しないことを心から願いたいと思います.